赤と黒-S.

1998年1月14日 20:04

先日、 Mが「おれは、人と話していて、変な話だが、自分はハイソサエティに属するとか思う時がある」と言った。決して奢りからそんな事を言ったわけではなく、もっともな話だと思う ; 純粋に環境的な意味として、また生まれついた顔や身体的な特徴という点からして。まこともそうだと言う。なるほど、たしかに。だが、私とTはそうではない。

この手の話はスタンダールの『赤と黒』のジュリアンから派生した。私とTの共通点としてナポレオンになるとか、独裁者になるという理想の動機として、何か欠落観(欠乏感)を持っているということをMが言及した事から始まったのである。Mはそのような、我々に共通のある種の強迫観念からフリーであると思う。かといってMに、向上心の様なものが全くないというわけではないし、またM自身、そのようなものがないという事を強く否定していた。もっともなことである。そのような動機のない人を私は愛したりしない。

ただ、我々とMには圧倒的な違いがある。それはそれが、強迫観念である、ということと、刺激剤であるという事である。我々には、否、少なくとも私にはそれは強迫であり、脅迫である。強迫とは、無理強い、相手を恐れさせて自由な意思決定を妨げる事であり、脅迫とはおどしつけて特定の行為を迫る事である。

compulsion and threat..

その二つに共通なのは、無理矢理by forceという意志が少なからず反映されているということである。Mは違う。そこに無理な力はなく、あくまで自然の動きとしての刺激であり、いわば栄養ドリンクのようなものである。なんらかの人為的な感情は加わるかも知れぬが、それはなんら強制を要しないものである。そこに違いがあるのだ。私のそれは卑屈を生み得る。Mのそれは嫌みとならない。私のそれは、時にはしつこすぎるほど根強く、根深いが、Mのそれは常にそうとは限らない。

この細か過ぎるかも知れぬ、階級的相違(一時的に誤解を覚悟でこう呼ぼう)は、本の読み方にも影響を与えた。私は、『赤と黒』において、ジュリアンの進んだ方向が途中から大幅に俗っぽく、あるいは”貴族らしく ”なったと思う。支配階級である、赤と黒に象徴される、軍人階級と聖職者階級。ジュリアンはそれら階級を最初から覆そうなどとは考えてもいない。ただ、自ら尊敬するものの跡を辿り、しかるべき地位を獲得するのが目的だったのであろう。つまり、赤と黒の間を偽善を纏い縫っていく。そして両者をさらに支配しようという理想をもとに行動を慎んだ、つまり偽善を装いこんだのである。(だが、ジュリアンは、いつしか、エッシャーの絵の様に、模様の一部へと組み込まれていく。)後半部分ではいつしか、理想自身も赤と黒に紛れてしまう。(私にとっては)高尚でさえあった理想も、貴族的な俗な理想、恋愛沙汰へと鞍替えされてしまう。

私はこの「転換」を、純粋に、理想を常に掲げ続ける事の難しさ、ととった。つまり、これは人間の弱さである。いくら能力があり、具体的な理想を掲げ、計画通りに事を運んでいけたとしても、一つの些細な(敢えてこう言おう)心情により、その理想の旗は降ろされ、他の者となんの変りもない、ただ「気の強い」人間に”没落”してしまうのである。理想を、不可能ではないが、途方もなく大きく難解な理想を掲げ続ける事には意味があろうか。それは問わない。なぜならば自分はすでにそれを始めてしまっている。それでは結果は如何にあろうか。二つしか思い浮かばぬ。一つはドストエフスキーの『罪と罰』に現われているだろう。理想は理想として残り、理想の実現者は自分ではない事に気づかされる。そこには絶望があり、ラスコーリニコフは宗教へと”逃亡”した。それは新たなる、そして正しい道である、とトルストイは言うやも知れぬが、若気の至り故か、 ”逃亡”としか称せぬ自分がここにいる。

Mは、作者の視点の変更を、つまり私の言う「転換」を、どうにもできない階級間を隔てる溝から来ていると表現していたと思う。あまり深くは触れなかったので、相手の真意を掴み兼ねるが、上でも述べたとおり、私はジュリアンが、階級社会を覆そうと思っていたとは、また作者がそれをジュリアンに求めていたとは思えない。givenとしての社会的状況をうまく把握したからこそ、ジュリアンは「赤」を選択したのであり、それは自分の理想である「黒」を実現するためであった。与えられた環境の中で自分の道を、理想への遠いが果てしなくはない道を、選んだのであり、そこに階級を飛び越えよう、社会を覆そうという意志はない。そこで問題なのは、「赤と黒」の打破ではなく、純粋に理想(もしくは野望)と、方法の二つのみであった。しかし「転換」以降、理想ははかなく忘れ去られ、よって方法も共に捨て去られたのである。

私にとって階級は当然飛び越える事のできるものであり、そのような社会的状況等よりも個人のあり方に興味を持った。時代に関係なく、変更の可能なのが階級である、というイメージを持っていた私にとって意味を持ったのは、個人としてのジュリアンのあり方であった。そこには社会への反抗も、順応もない。ただ、如何に彼が駒を進めていくか、が主たる関心事であった。しかしMは階級をそのように捉えていない気がする。精神的な部分で階級を意識しているために、それが変更(飛び級)可能なものではない、という意識が、意識的にしろ無意識にしろあるため、『赤と黒』における「転換」をそのように読んだのだと思う。

それでは「転換」は何故起こったのだろう。ジュリアンは、独裁者の孤独に耐え切れなかったのではないのだろうか。恋愛に向ったジュリアンを説明できるものは、未経験ゆえの一途なのめり込みではないだおろうか。ある意味、ジュリアンは恋愛からの安堵を、彼の(私にはより)高尚な理想を優先させたのだといえる。その選択は間違ってもいないし、正しくもない。ただそこには主観しかなく、彼には彼の、私には私の判断があるのみである、としか言いようがないのだ。そして私には、「転換」以降、話の展開が味気ないものとなった。

(((『赤と黒』の感想。Aさんに送ったもの)))
僕は、ジュリアン・ソレルがナポレオンとなる事を本当に望んだのならば、恋愛ごときに満足したりはしなかったと思う。偶然の導きと、実力の手ほどきに従って、身を立て、幾重もの孤独に耐え得たのは、「赤と黒」という社会的状況の中で、出世を試みた理想があったからこそだと思われるが、いつしか赤と黒を縫う有り余るエネルギーが孤独に耐え兼ねたかのように、一女性に対して向けられるようになる。赤の上におおかぶさった黒に、つまり王政復古時代の軍人の背後にあって意のままに事を動かす聖職者階級に、上塗りされたかのように見えたジュリアンの陰謀と偽善も、いつしか、理想から離れた、女性への色恋沙汰への偽善へと衣更えされる。若さゆえの所業か、無経験ゆえの浅はかさかは知らぬが、大事と小事を区別できていない。出世のための一道具でしかなかった恋愛ごとに足をつけたが最後、抜け出せず、いつしか自分の為に準備された道をも踏み外すはめになる。僕がこの小説で満足できなかったのはこの点だった。

スタンダールは、平民出身の有能な一青年の活躍を通して、その時代の偽善的状況である、「赤と黒」を明確に描きたかったのかも知れない。ただ批判を込め、その社会を繁栄させるためならば、まあ、結構な恋愛小説ではあると思うが、それが、結論となったところに僕は満足できないのである。この小説に、理想と孤独を突き詰めた先、つまりナポレオンに心酔していたジュリアンが自分の理想を偽善を重ねつつとことんまでその理想を追求していった先、が何であるかまで要求するのは無謀で無意味な事かも知れない。ジュリアンは、自分の偽善が何のための偽善であったのかをいつしか忘れ去ったかのように恋愛を始める。そして結局はそれが全てとなった。

ドストエフスキーは『罪と罰』の中で、非凡という理想を追求した先を垣間見せていると思う。「僕は非凡である、ナポレオンである。ゆえに僕の行為、大いなる理想を追求する行為に含まれる一切の罪は、罪ではない」という命題を掲げ、その命題を自分自身でどこまでも追いかけていった。僕は、『赤と黒』のジュリアンにそれを、彼の理想をどこまでも追求していった先を、それが明であろうとも暗であろうとも、みせて欲しかった。

だけれども、正直なところ、ジュリアンのとった偽善の衣更え(出世のための偽善から恋愛のための偽善)が、一番素直な人間像なのかも知れない、とも思う。というのも、やはり自分も時には異性のために、自分の理想を忘れてしまう事があるから。(ここでの理想って言うのは、温かい家庭とか、幸せな生活、などではなくて、純粋に社会的な地位、名誉などのことです。)良い恋愛が、自分の理想を手助けしてくれる事もある、と言うけれど、果たしてそうなのでしょうかね。経験不足の僕にはわからないところです。

 

ごちゃごちゃ書いてしまったけれども、要するに自分には理想に対する意志が弱い。
打破せねば。ジュリアンの二の舞は御免だ。   Chiwoong

p.s.
僕の書いた「偽善の衣更え」ってわかりにくかったかなぁ、と思って付け足します。

要するに、ジュリアンがいつしか(ラ・モール嬢にほれてたころ)”ふぬけ”になったということです。以下、二編二十五章の最後くらいからの引用。

「耐えられない不幸のために、気が転倒しているので、あらゆる人生の利害問題が、自分とラ・モール嬢との関係を通じてしか考えられなかった。・・・見られるとおり、あれほど冷静だった頭が完全に狂ってしまったのである。かつでジュリアンを人並みすぐれたものにしていた、あらゆる長所のうちで、残っているのは、多少の気の強さだけだった。」

 

p.p.s.
僕の書いた「偽善の衣更え」ってわかりにくかったかなぁ、と思って付け足します。

要するに、ジュリアンがいつしか(ラ・モール嬢にほれてたころ)”ふぬけ”になったということです。以下、二編二十五章の最後くらいからの引用。

「耐えられない不幸のために、気が転倒しているので、あらゆる人生の利害問題が、自分とラ・モール嬢との関係を通じてしか考えられなかった。・・・見られるとおり、あれほど冷静だった頭が完全に狂ってしまったのである。かつでジュリアンを人並みすぐれたものにしていた、あらゆる長所のうちで、残っているのは、多少の気の強さだけだった。」

 

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