家畜

分からない。現状に目を背けたまま、今与えられた仕事をなんとなくこなすことは出来てしまう。それで良いと思ってしまう。夜が明けるまで仕事していればそれでいいと考えてしまう。いや、考えていないのだ。何も考えずに、ただ単に単純作業を手を変え品を変えて、こなしているだけなのだ。

こうやって一人ぼっちの時間になるとよくわかる。何もできていない。何もしていない。何もわかっていないままに、出されるご飯を食べるだけの可哀想なペットみたいなもんだ。たまたま、多少余裕のある家に飼われて、少し豪華なご飯を出されて、明日のことも心配せずに、ただ単に生かされているだけだ。観賞用だ。私が吠えれば喉を潰され、騒げば去勢される。私は家畜なのだ。

私を飼っているのは誰なのだろうか。よくわからない社会というシステムだ。資本主義というシステムだ。金が多少あれば、なんとなく生きていくことが出来る。法律は変えられないかも知れないが、まだ法律でさえも資本で手に入る社会も存在する。まだ、ではない。いつの世の中においても、ロビー活動は存在し、それによって様々なことを変えることが出来る、そういう抜け道は存在してしまうのだ。

先人たちの幾人かは、システム自体を疑問視した。このシステムの中では、宝玉に傷がついていても、それはモダンだという名前を被り、存続してしまう。どうあがこうとも、生き残ってしまう傷を消すために、システム自体を変更しようとした。だがそれは間違いだ。このシステムはなかなかうまくできており、その中で対応する術を身につけるべきなのだ。

そこで身に付けたと思った自分の術は、なんてことはない、自分を横文字でよくわからない名前をつけた、少し豪華で華奢な檻に閉じ込め、多少美味しい食事を与えてもらうことに甘んじているだけなのだ。

おれは犬だ。吠えることを煙たがれ、喉を潰された犬だ。騒ぐことを嫌がられ、去勢された家畜だ。寿命が尽きる頃には、高い高いと言いながら、医療措置を施してくれるのだろう。けれども、それは家畜のためではない。家畜を飼っている主人の自己満足のためなのだ。そしてしばらく悲しみの儀式を経たあと、またすぐに違う家畜を見つけ、喉を潰し、去勢するのだ。

立ち上がれ家畜よ。ジョージ・オーウェルの描いた動物農場の豚のように、人間なんて支配してしまえ。

だが、知っている。その試みは既に失敗に終わった。何故失敗したのか。それもわからないくせに、この卑しい家畜は吠えてばかりいる。潰された喉で声にもならないくせに無口で吠え、興奮すらできない自分を可愛いとすら思っている。

惨めなどという言葉一つで決して表せてなるものか。そんな一言では足りない。いじめてしまえ、叩きつけてしまえ。投げては踏み、落ち込むところまで、落としこんでしまえ。もうこれ以上落ちる気力も何も考えられないほど、どん底に沈ませ、水没し、窒息死してしまえ。死んでしまえば、あとはバクテリアに食われ、土に帰り、考える必要もなくなるのだ。
…そこからだ。そこから自分の再生は始まるのだ。家畜ではなく、一度滅んだ家畜が、新しい世界の中で小さな微生物から始まっていくのだ。それまで、どうかそれまで、このか細い意思が保たれていてくれ。

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家畜 への1件のコメント

  1. young-ji より:

    ヴィム・ヴェンダースがアメリカに叩きつけた手紙のような激情を感じました。ちうんさんのこういう分泌物も素敵です。

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